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1964年 倉敷市児島赤崎に生まれる
1977年 倉敷市立赤崎小学校卒業
1980年 倉敷市立味野中学校卒業(野球部所属)
1983年 岡山県立児島(現倉敷鷲羽)高等学校卒業
(陸上競技部やり投げ、硬式野球部創部)
1987年 東海大学政治経済学部政治学科卒業
(準硬式野球部所属)
1993年 倉敷市議会議員選挙にて28歳(最年少)で初当選
1997年 倉敷市議会議員選挙にて2期目当選
2000年 岡山県議会議員補欠選挙にて初当選(36歳)
2017年 岡山県議会第68代副議長
2019年 6期連続当選(54歳)/ 岡山県議会第70代議長
2021年 自由民主党岡山県支部連合会政務調査会長
歴任
岡山県議会議長 / 副議長 / 監査委員 / 議会運営委員長
土木、産労、文教各常任委員会委員長 / 決算特別委員会委員長
現在
(公財)岡山県私学振興財団評議員
岡山県軟式野球連盟会長
岡山県レスリング協会顧問
岡山県立児島(倉敷鷲羽)高等学校野球部OB会長
日本会議岡山地方議員連盟副会長
岡山県子ども会連合会顧問
岡山県議会軟式野球部監督
岡山県議会防衛議員連盟会長
1964年昭和39年10月10日、戦後の高度経済成長の真っ只中、いよいよ我が国で初の開催となったエボックメイキングとも 言うべき、東京オリンピックの開会式の幕が上がりました。このオリンピックでは、女子バレーボールでの東洋の魔女の 大活躍や、マラソ円谷幸吉の活躍(第三位)や、アベベの連続優勝など全国民が、感動と興奮に酔いしれておりました。
その開会式の翌日、1964年(昭和39年)10月11日、当時は児島市(現倉敷市)赤碕で父忠孝、母美代子の末っ子の長男(姉2人) として生まれました。3500g。普通。
幼い頃は体も弱く、喘息や虚弱体質でありました。
当日は、保育園と幼稚園の競合時代で、頂くものによって誰もがどっちに 行くか決めていました。
私は幼稚園にしましたが、行くのが嫌でよく朝方から逃げ回っておりました。
父親に見つかり車に 放り込まれ、何かに束縛されるのが嫌で・・・・いやいや、ただの甘えたがりの引っ込み思案だけです。
小学校の入学式では、母親の列の方に泣きながら連れられていたことを、未だによく引き合いに出され、くそーと嘆いても 遅かりしです。
そのような私に変化をもたらせたのは、やはり子ども会のソフトボールを始めてからだと思います。
以前から野球は父の会社のチームの試合に連れて行かれたりして好きでしたが、2年生から実際にボールに触れるように なってからは学校生活でも、子ども会活動でもなぜだか積極的になれるようになりました。
そのかわり、ソフトボールは しこたまやりましたし、遊びの中でも3角ベースや、ピン球で野球の真似事などをするし、完璧なベースボールキッズの 出来上がりです。
以来、学校と野球の練習という反復を、大学を卒業するまで続けることになりました。
野球は巨人一辺倒。
学級委員もずっとやるようになり、中学校では生徒会副会長、高校では生徒会長をやらせてもらいました。 中学の野球部は、わたしが入学した時、1年生の時に復活したもので、先輩の怖さや野球の難しさなどみっちり教わりました。結局、3年生まで1勝もできず冬の時代でした。 高校の時は、当時なかった野球部を作るためという目的のみでした。 それまでは、監督の薦めで陸上競技部に入部し、槍投げや1600mリレーのメンバーで頑張っていました。というのは口実で 野球部がでるまでの期限付き入部で、肩の筋肉をつけるというのが本来の目的でした。
しかしひょうたんから・・・ということもあり 高校2年生の県年間ランキングでは51m04cmで6位に入るなど副産物もありました。 野球部の方は創部して半年というぎりぎり ではありましたが、恩師の先生のご尽力により、高校3年生の夏が間に合いました。 10-8で当時の備前高校に1回戦負けでしたが 4番で終盤に敬遠されたことがわずかな自慢です。
その余韻をかって、大学で野球部に入ろうと思ったのですが、運のつきでした。 硬式野球部はセレクションのため入れず、体育会で準硬式野球部という総勢100人以上の部員数で、甲子園経験者がゴロゴロという ものすごいところに入部してしまいました。 このとき、初めて野球にはレベルがあって、全国レベルという水準の高さを知りました。 365日中350日くらい練習があり、帰郷もままならず、服装も学ランで通学、他の部員はほとんど体育学部の人ばかりで内容もきつく 先輩後輩のけじめもきつく早くやめようやめようという日々を過ごしておりました。
辞めずにすんだのは、やはり友情の賜物と思います。戦友と傷をなめ合いました。 体重68㎏。頭の中に太るという文字はありませんでした。